東京のゆくえ

『シリーズ・変容する世紀11』(2004年)より抜粋
巨大都市・東京のゆくえ

失われた10年という言葉(フレーズ)が力を失いつつある。バブル経済崩壊後の長期にわたる経済の低迷、次々と噴出する「人々をがっかりとさせる」諸問題の数々。その多くは、戦後の驚異的な日本の成長を生み出してきた仕組みの矛盾が露(あらわ)になること、すなわち制度疲労に起因するものに集約される。しかし、もはや他人という第三者や政治のせいにしている時ではなくなったことに人々は気づき始めた。無為に過ごしてきたかに見える20世紀最後の10年間が、実は無駄ではない結果を生み始めている。答えは明白。在来型の解決手法が通じず、問題解決が自らの手に委ねられたことで、価値観の大いなる転換、パラダイムシフトが不可欠であることを受け入れざるを得なくなったのである。その具体的かつ戦略的な対応が可能となる局面が「東京」に発生しつつある。

 

● 東京の存在

東京がこれからどうなるかを考えるならば、東京って一体何なのかをまとめておかねばらならい。見方は2つあろう。「実体としての都市・東京」の存在、「象徴としての東京」の存在である。

いうまでもなく東京は首都であるから政治のへッドクォーターである。と同時に、世界有数の経済におけるへッドクォーター都市である。80年代後半の国際金融業の発展の中で、いわゆる世界都市であるニューヨーク、ロンドンと東京が並び称されて、世界の三極構造を形成していったことは記憶に新しい。国家の負債を帳消しにしたいアメリカが、1985年のプラザ合意で円の価値を倍にし、それを可能にしたのである。90年には、外国為替の一日取引高と株式上場企業数でニューヨークに肩を並べ(一位はともにロンドン)、対外銀行資産ではロンドンについで二位にまでなった。

象徴としての東京はどうなのか。「東京ブランド」に示されるように、戦後、半世紀以上を経た現在、日本における都市の代表は東京であり、大都市にまつわる諸々の議論、良い面、悪い面、その各々における実例は東京を前提にして語られている。かつて日本各地の繁華街に「銀座」の名がつけられ、日本の多くの山が「○○富士」と称されていたのを思い起こせば、いまや、その役割を東京が奪い取ってしまっていることに気づく。東京における集積のメリットを享受するかのようにバブル時代にはヒト、カネ、モノが集まり、たとえ立地コストが高くとも、東京に本社をおこうとする動きは止まらなかった。その東京の繁栄を見て、それは地方からの略奪によって成り立っているのだからという声が高まる。それを地方に戻せとばかりに、バブルのピーク時期である1990年11月には、「首都機能移転」の決議を国会でするまでになった。

ところが、こうして象徴として君臨し、それに対するアンチテーゼが渦巻いた状況は、バブルが破裂し、人々が夢から覚めてみた時、実は実体としての東京の重さに、はからずも気づくことになる。象徴としての是非論を問うている状況ではなくなったのである。

そもそも、日本の国家運営は、都市部で稼ぎ、その上がりを使って中央政府が国全体、特に脆弱な財政基盤の地方へお金を還元する仕組みで成り立っている。都市部は、当初、第2次産業である製造業を主体として産業育成を図った。そのため、大量の労働力を必要とし、それが農村部、すなわち地方からの若年労働者を奪い取ることになった。奪い取られ衰退の進む地方は、高齢化や優秀な後継者の減少に悩み、被害者としての意識をもつようになる。しかし、そうした不満への対応は可能であった。国は地方交付税や補助金で、産業育成のための基盤施設整備、自立のための財政支援を行ったのである。東京都では払った税金の三分の一しか、国から還元されないが、島根県では、払った税金の倍以上が還元されるという現象を生んだのである。

そして、結果はどうであったのか。工場の立地、すなわち製造業を主役に起業する地方の目論見(もくろみ)はもろくも崩れる。なぜなら、産業の育成は日本という一国の中で完結するものではなく、多くの製造業は立地コストとはるかに安い労働力の得られる地球上の多くの途上国へ散っていったのである。集積をベースとする第3次産業であるサービス業の育成はもちろんされないまま、地方は国からの交付金に頼ること、そして産業はその原資によってなされる公共事業、多くは土木建設業という構図が固定化してしまったのである。しかも、稼ぎ頭の東京でも、生産の効率が悪ければ、地方に配る分配金は減らさざるを得ない事態となった。

こうして、日本全国を平等に育成しようという「均衡ある発展」という国家のテーゼは、戦後50年を経て、発展拡大する成長経済の下で、国際競争力で優位に立っている時のみ可能な国内的議論であることが理解せしめられた。そこでの、反集中としての分散政策や、富める大都市への衰退する地方へのペイバックの仕組みは、もはや同じ形式では維持できないことが明らかとなったのである。

 

● 大都市への集中の意味

2002年11月に、工業等制限法が廃止された。1962年に作られ、三大都市圏への集中を抑制する戦後の代表的な政策であった。「工業」とは工場であり、「等」は大学である。首都圏では、東京23区と三鷹、武蔵野、横浜市の一部などで、工場と大学の新、増設が禁止された。

20世紀末の日本の国際競争力の弱体化は、大都市部にさらなる助けを求めることになった。なぜなら、国際競争力の回復をもっとも迅速に求められるところは大都市、それも東京しかないからである。

それは再び東京への集中を促す結果となるのではないか、との問いがでるかもしれない。しかし、21世紀の今、それに対する答えは、「それがなぜ悪い」である。実は、その答えがなされる大きな前提の変化が起きているからなのである。
集中の否定、分散政策の推進、そして均衡ある発展という考え方の根底にあるのは、拡大発展を基調とした成長経済の思想なのである。ところが、成熟社会へ移行しつつある日本社会は、現に過去のような高い成長率が期待できない。オイルショック後の長期低迷の後に日本は再び経済の成長を遂げたではないかとの意見があるかもしれない。しかし、今回はそれにあたらない。なぜなら2006年に、日本全体でいよいよ人口増加が終り、減少局面に入ることが分かっている。東京圏でも2010年から15年頃にかけて同じ様に人口減少が始まる。そもそも、2050年には、日本の人口は2割から3割減となることが予測されているのである。

今できること。それは、限られた資源を集中的に投下し、できる限り効率性の高い生産をし、効果を生みだすことなのである。日本全体を見れば、それを可能とできるところは東京しかない。もはや集中が悪であるという呪縛から解き放たれて、集積の効用を生かして一早い国力の回復が必要となっているのである。2002年6月に施行された都市再生法は、特に、そうした意識に立ったものであった。

 

● 大都市・東京の姿

今、東京では人口について2つの現象が顕著になりつつある。1つは、90年代中頃に東京圏では一時、人口の転出が転入を上回ったのであるが、その後、再び転入増に転じていることである。もう1つは、その大都市圏の中での人口移動について、郊外から都心への動き、すなわち都心回帰が進んでいることである。

都心回帰とは、都心3区だけを指すのではなく、埼玉県や千葉県から東京23区の外縁の区への人口移動、すなわち都心方向への移動も意味しており、現象的には拡がった大都市圏の収縮が始まっているのである。

そもそも、20世紀に始まる大都市圏の発達とそこでの政策をみていくと、大都市圏において郊外の住宅は大きな意味をもってきた。「田園都市構想」という英国人E・ハワードが1902年に提案した有名な構想がある。大都市というのは、郊外に田園都市をつくって中心都市(母都市)と鉄道や高速道路で結び、郊外都市は自給自足にする。その郊外都市は人口3万2000人で、3万人が都市住民、2000人が農村人口と考えた構想である。20世紀の大都市圏計画における住まい方は、ほとんどがこの考え方が基本といっておかしくない。このときの発想は、郊外都市から母都市への大量の通勤は特に考えておらず、郊外都市は自給自足で、必要があれば母都市へでかけて行くという形態である。ところが、現実は違った。ハワードは中心都市が5万8000人、田園都市が3万2000人で、だいたい2対1の比率で考えていたが、実際は母都市が500~600万人で、郊外都市は大きいものでも20~30万人のレベルで、多くはより小さな都市群となり、結局、郊外は自立せず、大都市のベッドタウンと化した。しかしそうであっても、ハワードが考えていた田園都市とは、豊かな自然にあふれた、質的にレベルの高い住宅に住むことであった。それがイギリスでは可能であった。

では、東京はどうであったか。住むところが短期間に外側に広がってスプロール化し、さらにはるかかなた、通勤時間1時間半から2時間もの遠隔の地まで拡がってしまった。郊外に自然を求めて住宅を持つという考え方が根底にあったからだといえば確かにそうかもしれない。それに土地神話もあり、一生のうちに不動産資産をもつことに意味があると多くの人が信じていた。しかし、その結果、人々が郊外に移り住んでしまった都心は空洞化してしまったのである。ところが、大都市圏に住んでいるサラリーマンの実態は、郊外にいっても庭は小さくて、周辺の基盤整備のレベルは低く、通勤混雑があって、通勤時間が長い。一方、都心には基盤整備をしなくても住める場所がいっぱいある。そこは郊外に存在するような自然はないが、きわめて利便性は高いという現実が見えてきたのである。この先、都市圏全体で人口が増えるというプレッシャーが減るのであれば、いたずらに郊外に住もうという考え方はもはや考え直さなければならないことになる。大都市圏の中で、都心は最も基盤整備、すなわち生活環境の水準が高い。昼間の基盤整備で300万人が住めるのにもかかわらず、夜になると60~70万人になってしまうのである。そこにはあと200万人入っても大丈夫なだけのインフラが存在している。インフラがありながら住まない。この矛盾は何かということに気づくべきなのである。

実は、都心のインフラの水準が高いことは、道路や上下水道などのユティリティーだけではない。教育、医療、文化、娯楽など、生活の幅を広げる多くの機能が充実しているのである。そして、そのことに気づいた多くの住民が郊外から都心方面へ移り住み始めている。しかもバブル経済崩壊後の不良資産としての遊休地の放出は、相対的に安価な住宅、マンション群を都心に供給することが可能となった。東京23区内で年収の5倍近くで住宅を求めることは、都心3区などの特異な区を除けば、ほぼ現実のものとなったのである。

 

● 東京の再生と新たな都市構造

それでは、東京はこうした人々の動きに対する準備をしているのであろうか。答えは諾(イエス)である。
2001年10月に、東京都では新しい「都市づくりヴィジョン」を発表している。私もその一連の策定作業に加わったが、大都市圏における分散政策の失敗、老朽化が始まった都市空間の更新の必要性、多様化する人々の志向と活動に適合した都市空間を生みだすには何をすればよいのか、そもそも、何がネックとなって人々の求める都市空間が生まれないのかなど、数多くの議論を、そして大胆な検討がなされた。

需要に供給が追いつかない中で、とにかくレディーメードな都市空間を作ってきてしまった状況が、いよいよ高質なオーダーメードの都市をしかも迅速に作らねばならぬ局面におかれた。規制緩和の中で問われている核心の部分である。

この都市づくりヴィジョンに示されたこれからの東京の都市構造の特徴は、都心と湾岸部に現れた。都心の機能を業務機能という単一機能のみで考えず、職住遊学の多様な機能を有するものとすること、都心の定義を広く考え、その範囲を環状6号線あたりまでとし(センターコア・エリアと名づけられた)、従来の都心(丸の内)、副都心(新宿、渋谷など7ヶ所)という区分けをせずに、全域的に一体として考えることである。すでに品川、汐留、六本木、秋葉原など、従来は副都心とされなかったところに拠点が次々と出現し、このことの妥当性が証明されつつある。これはすなわち、居住環境の魅力拡大を意味しており、職住近接型の都心が実際に実現する場所を生み出していることになる。それを現実のものとした六本木ヒルズでは、オープンから半年で、3千万人を超す来訪者を迎えることになったのである。

このように現在の都心回帰がこれからも続くとして、都心に戻りたい人が増えていっても、それを可能とする都市のヴィジョンはすでに出来上がっているのである。

東京でもう1つ注目すべきところは、ウォーターフロントである。かつて、90年代初めに都心の溢れ出る業務機能を受けようとしたこの地が、商業、娯楽機能と、居住機能で復活しようとしている。しかも、東京湾のウォーターフロント(ウォーターフロント都市軸と名づけられた)は、陸海空の交通の要所に位置し、国際的な起業力を生み出すことのできる産業立地の用地が豊富となっている。羽田(4本目の滑走路が完成されれば国際線の発着が開始)から成田へのアクセス、日本一のコンテナ埠頭をもつ東京湾、そして首都圏の将来の大高速道路網となる三環状道路(首都高速中央環状線、東京外かく環状道路、首都圏中央連絡自動車道)のすべてが、この地域とかかわりをもつのである。
巨大都市・東京は、センターコア・エリアとウォーターフロント都市軸の育成を図ることで、再び世界の三極構造の一角を固める期待が高まっている。

シンガポール、香港、上海、ソウルでは、ハブ空港がその将来的な優越性を高められるのだと、それぞれが大規模な国際空港を建設した。成田しか持たない日本は確かにアジアのなかでバスに乗り遅れた。しかし、均衡ある発展という非競争的平等の論理をかなぐり捨てれば、日本復活の道は開ける。そして、そのキーワードこそが、東京と日本の再生なのである。

 

● 東京と地方

拡大発展から縮小均衡する経済の中で、巨大都市東京が効率性を高めるコンパクト化を成し遂げることのできた時、再び提起されるテーマは、衰退を続ける地方の問題である。

1962年の第1次全国総合開発計画以来、過去に5回策定された全総計画で常に政策立案の前提となったのは、富める大都市に対峠して浮上しえない地方への対処である。各々の計画のたびに地方の活性化を工業化やリゾート開発で押し進めようとして失敗し、地方の要所に東京を小さくしていくつも埋め込もう(多極分散型国土)としてが、それも叶えられなかった。

少子・高齢化に象徴される人口減少、サスティナブル・ディベロップメントと言わざるを得ない環境問題への対応の厳しさ、国際競争というサバイバル、多くの与条件の中で地方は浮上することのきっかけをつかめずにいる。遅れた基盤整備の水準を上げよと新幹線を通し、高速道路を建設すれば、それはその地方の衰退を救うものではなく、ストロー効果によって、大都市にさらにヒトとモノを吸い取られる結果に終っているのである。分散政策の切り符として多大な期待をかけられた情報化の進展も、やはりフェース・コンタクトのメリットを打ち破るところまではいかなかった。

これだけの物証をつきつけられて何をいまさらもがく必要があるのであろうか。パラダイムシフトとは、価値観の変化、すなわち、従来型の「都市 対 地方」という加害者と被害者、富めるものと貧するものという対峠的発想を捨て去らねば問題はいつまでも解決しないことを示唆している。

向かうべき敵は国内ではなく国外にある。都市と地方は一心同体。先進国最大の都市圏として東京の盛衰は国家の盛衰そのものと考えなければならない。巨大都市・東京は、世界に例を見ないまでの高度なコントロール能力を持って、これからも走り続けるのである。そして、走らねばならないのである。